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長野地方裁判所 昭和30年(タ)3号 判決 1957年12月04日

原告 X

被告 Y

主文

原告と被告とを離婚する。

被告は原告に対し金四十万円及びこれに対する昭和三十二年一月三十一日から支払ずみとなるまで年五分の割合による金員の支払をし、且つ離婚確定の日から十年間原告の生存中に限り毎月末日限り金三千円の支払をせよ。

原告のその余の請求はこれを棄却する。

訴訟費用はこれを三分しその一を原告の負担としその余を被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「原告と被告とを離婚する、被告は原告に対し金百五十五万八百八十二円及びこれに対する昭和三十二年一月三十一日から支払ずみとなるまで年五分の割合による金員の支払をせよ、訴訟費用は被告の負担とする」との判決並に金員支払の点について仮執行の宣言を求め、その請求の原因として次のように述べた。

「原告と被告とは昭和六年十二月八日婚姻の式を挙げて同棲し昭和八年四月八日婚姻の届出をした。被告は右挙式の当時長野県庁保険課の雇員であり、その後漸次昇進して昭和二十八年四月須坂建設事務所庶務課長となり現在に及んでいるが、昭和十七年七月県庁社会課から下伊那地方事務所庶務課長に転出した際、近いうちに再び長野方面に転任になるようにするからといい、また被告の弟Aが当時長野工業学校の生徒であつた関係もあつて、原告は長野市吉田町で繊維工場を経営していた実兄Bの仕事の手伝をすることとして長野市に残り、被告は単身赴任した。しかるに被告は間もなく上伊那地方事務所に転じ、当時伊那町(現在の伊那市)においてCと称する女性と懇ろとなり、その後南佐久地方事務所に転任になつたが、その際には同女を同伴して任地に赴き同棲を続けた。そのようなことから昭和二十一年初め原被告双方の近親者並に南佐久地方事務所長及び県庁厚生課長等が参集して話合つた結果、被告はCとの関係を断つ旨言明し、同時に長水地方事務所に転任になつたので、原被告は再び長野市において同棲生活を営むこととなつた。その後は被告が昭和二十二年二月下水内地方事務所総務課長となつたときも原告は共に被告の任地である飯山町(現在の飯山市)に行き、更に被告が昭和二十三年七月県庁に帰つた後は長野市吉田町に同居し、爾後被告は篠ノ井、中野及び須坂の各建設事務所庶務課長に歴任したが住居を変えないで長野市から通勤した。右のように経過したが、偶々昭和二十九年六月四日被告の弟Aが信越電気通信局から新潟電話局へ転任となつた際原告が荷造りの手伝に行つたところ、箪笥の角に頭を打ちつけて腫れ上つたので帰宅して床に就き、被告に薬を買つて来てくれるよう頼んだところ、被告は夫を使うといつて立腹し、原告の顔面や頭部を平手又は手拳で殴打し、更に原告が逃れようとしたのを引倒し膝で押えつけて殴打を続けた上二階の階段から突落した。そのため原告は左耳の鼓膜を破られ、顔面は甚だしく腫れ上り、右手及び肩が痛み、その治療に一ケ月余を要した。また同年十一月四日午前六時四十分頃被告は被告の靴下が小さく破れていたことから怒り出し、靴を穿いたまま勝手に上り板の間で原告を数回突倒し、頭部を手拳で乱打し、倒れている原告の胸部、股部等を靴穿きのまま蹴り、床板に頭を押えつける等の暴行をし、そのまま家を出た。原告は当日朝食も昼食も執らずに床に就いていたが、午後三時過頃家を出て諸所を彷徨した末諏訪方面に行き、同月十一日夕刻死を決して諏訪湖畔で思案に耽つていたところ、偶然原被告の住居と同じ棟の一部に居住していたDの父で当時更級郡牧郷村長をしていたEに発見され、翌十二日同人に伴われて右牧郷村の同人方に行つたが、被告より暴行を受けてから約十日を経た当時もなお時折鼻血が多量に出る状態で、同人の世話を受けて静養した後同月十八日肩書地の実父の住居に赴き、爾来そのまま実父方に同居して今日に至つている。被告はCとの関係を断つと言明しながら、その後も密かに同女と通じてきたものであつて、昭和二十九年十二月十六日従来の住居においてあつた被告の動産類全部を取纒めて肩書現住所に運び、目下右Cと同棲中である。そのことからすると被告が原告に対し暴行を加えたのは原告と別れて右Cと同棲する意図から企てたものと考えられる。なお被告は前述の二回に亘る暴行傷害の事実について起訴され昭和三十一年五月十日長野簡易裁判所において略式命令により罰金五千円に処せられ右略式命令は同年六月六日確定した。以上の次第で原告は被告との婚姻を継続し難い重大な事由がある。

そうして被告は時価三十万円余の不動産、数十万円の銀行預金その他相当額の財産を有する筈であり、殊に被告の父F名義の杉山二筆合計一反六畝一歩は原告が婚姻挙式の際持参した金百五十円と原告が他から借入れた金五十円と合計二百円で昭和八年十月二十七日訴外Gから被告が買受けたものである。また被告の現在の俸給は月額金二万四千四百円であつて、もしも被告が現在退職するとして、法規に従つて計算すると、一時恩給三十二万二千二百円及び退職手当四十三万四千四十円(右はいずれも課税を差引き現実に支給を受けられる金額である)を支給され、更に退隠料として年額八万三千二百八十六円を支給されることになつている。但し右退隠料については長野県恩給条例(昭和二十三年一月十四日条例第二号)第五条によつて準用される恩給法第五十八条の三の規定によつて五十五歳に達するまでは十分の三の金額の支給が停止されるので、被告は明治三十八年○月○日生れであるから昭和三十五年九月までは被告に支給される金額は右金額の十分の七である。右の恩給(一時恩給及び退隠料)及び退職手当は原被告夫婦の協力によつて被告がその支給を受けられる期待権を得たのであるから、その半額は妻たる原告に分与されて然るべきものである。そうして右の退隠料については仮りに被告が死亡したとしても前記長野県恩給条例第五条によつて準用される恩給法第七十三条及び 第七十五条の規定によつて、その半額を扶助料として配偶者に終生支給されるのであるから、いずれにしても退隠料の半額については原告の生存中の期間分が原告の取得するところとなつて当然である。原告は明治四十四年○月○日生れであるから昭和三十一年○月○日で四十五歳となり、四十五歳の女の平均余命は二八、三六年であるから、右退隠料年額八万三千二百八十六円(但し前述のところに従つて昭和三十五年九月まではその十分の七の金額)の二八、三六年分の総計についてホフマン式計算によつて年五分の割合による中間利息を控除して現在の価額に引直すと金六十七万二千八百八十二円である。よつて前述の一時恩給三十二万二千二百円及び退職手当四十三万四千四十円の各半額相当の合計金三十七万八千円及び右金六十七万二千八百八十二円の総計百五万八百八十二円は被告の有する他の財産を考慮にいれなくても原告に分余されるのが相当である。

また原告は前述のとおり被告と婚姻して以来の二十数年間を妻として被告に忠実に尽したにも拘らず、被告は妾と同棲するに至り、それのみでなく原告に対して前述のような暴行を加え、そのため原告は治療費二万円を要したばかりでなく、今なお鼓膜を破られたことによる故障及び殴打による顔面黒褐色色素沈着症が継続し、人生の大半を過ぎた今日被告のために婚姻を継続し難い状態に立至らしめられた原告の精神的苦痛は甚大であつて、これに対する慰藉料として相当する額は、被告の財産状態等をも考慮すれば、少くとも金五十万円を下らない。

よつて被告との離婚を求めると共に、被告に対して財産分与として金百五万八百八十二円及び慰藉料として金五十万円、但し右金百五万八百八十二円中財産分与として認容せられない部分があればこれを慰藉料額に追加し、合計百五十五万八百八十二円及びこれに対する昭和三十二年一月三十一日から支払ずみとなるまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴請求に及んだ。」

立証として、原告訴訟代理人は甲第一乃至第八号証、第九号証の一乃至四第一乃至第十三号証を提出し、証人E、同H、同I、同J、同K、同B、同L、同M、同N、同D及び原告本人の各訊問を求め、鑑定人Oの鑑定の結果を援用し、乙第二号証の一、二及び第三号証の一乃至四の各成立は認めるが、同第一号証の一、二の成立は不知と述べた。

被告は請求棄却の判決を求め、答弁として次のように述べた。

「原告主張の事実中、原告と被告とが昭和六年十二月八日婚姻の式を挙げ昭和八年四月八日婚姻の届出をしたこと、被告の職歴に関する主張事実、昭和十七年七月被告が県庁社会課から下伊那地方事務所に転出した際原告が長野市吉田町で繊維工場を経営していた実兄Bの仕事の手伝をするために長野市に残り被告が単身赴任したこと、被告が伊那町においてCと懇ろとなり原告主張のように同女と同棲したこと、昭和二十一年初め原告主張の者等が参集して話合い被告がCとの関係を断つことを約し原告主張のように原告との同棲生活を続けたこと、昭和二十九年六月四日及び同年十一月四日口論の末被告が原告を殴打したこと、被告が暴行傷害罪で起訴され昭和三十一年五月十日長野簡易裁判所において略式命令により罰金五千円に処せられ右略式命令が同年六月六日確定したこと、被告の現在の俸給が原告主張のとおりであること、もしも被告が現在退職すれば原告主張の一時恩給、退職手当及び退隠料の支給を受けられること、被告が死亡した場合に退隠料の半額が扶助料として原告に終生支給されること、原告の生年月日及び年令並に被告の生年月日が原告主張のとおりであることはいずれも認めるが、その他の事実は争う。被告が原告を殴打したことはあるが原告に傷害を負わせた事実はなく、原告提出の診断書(甲第二及び第五号証)は医師をして自己の主張のとおりに記載せしめたか乃至は他の原因による負傷を被告に転嫁するためのものであつて措信できない。また原告が諏訪湖に投身しようとしたとの主張は全く虚構にかかる捏造の主張である。

原告は生来勝気な性格で、好ましくない態度をとることが多く、被告が一寸した小言をいつても素直に詫びたことが一度もなく、乱暴な言葉を吐いて時には口論の末物を投げつけたり刄物を持つて立向うことすらあつたため、被告も時には激昂して原告を殴打したこともあつた。そうして原告は昭和十四年六月頃から実兄B方の工場に手伝に行つており、そうした関係から被告は下伊那地方事務所に転任の際単身赴任して一時別居したのであるが、一ケ月に一、二度土曜日曜にかけて帰宅しても、工場の仕事が隆盛になるに従つて原告の被告を迎える態度が思わしくなくなり、被告は不愉快な気持を抱きながら任地に帰ることが屡々であつた。偶々昭和十九年七月頃被告が帰宅したところ、原告は夕食になつても茶碗の用意すらせず、揚句に此処はBの家だから離婚して出て行けとの暴言を吐き、被告はその夜は物置に寝て任地に帰つたが、そのようなことから夫婦間に大きな溝ができ、被告の両親も離婚に賛成して原告の父にその旨を通知したこともあり、被告は兎角不愉快な日を送つていた折柄Cを知るようにもなつた。しかし昭和二十一年二月原告主張のように双方の近親等が参集して話合いの結果被告はCと別れて原告と同居することを約したが、原告は直ちに被告と同居しようとせず、ただ被告としてはもともと原告と離別する考えはなかつたので同年十二月から同居することになつた。昭和二十九年十一月四日被告が原告を殴打したことから、原告は被告の弟利信方に一泊し翌朝同所を出たまま所在不明となり、その後同月十四日被告はEから原告の所在を知らされ、翌十五日原被告双方の親族、E、H等が立会の上協議したところ、原被告は協議離婚することに話が纒り、被告は離婚届に捺印して原告に預けた。そうして被告は原告の要求によつて勝手道具、ミシン、茶箪笥、テーブル、蒲団、整理箪笥その他を原告に与え、原告の実家の家屋の一部であつた長野市吉田町の当時の住居を身の廻り品等を持つて引払い現在に至つたのである。

以上の次第で原告の主張は不当であるが、殊に財産分与の請求については、原告主張の一時恩給、退職手当及び退隠料は将来被告が支給を受けられると予想されるにすぎない不確定な期待権であつて、分与の対象とする財産ではないのみならず、仮りに分与の対象になり得るとしても、被告が長野県に俸職したのは、原告との婚姻生活にはいつたときより遥か以前である大正十五年十二月であつて、被告が現在の俸給を受けるようになり、従つて原告主張の恩給等の支給を得られると期待されるのは全部が原告との協力によるものでないことはいうまでもない。慰藉料の点について見れば、前述のとおり被告は原告に傷害を与えたことはなく、またCと関係を結ぶようになつたのも、原告が昭和十四年から昭和二十一年まで実家の事業の手伝をして被告と別居したりもし、妻らしい態度で被告に接することがなく、常にわが儘であつたためであり、特に被告が処罰を受けたことは、原告が前述のように事実と相違する診断書等の証拠を用いて被告を告訴したことに基くものであつて、如何に原告が冷酷な性質であるかを物語るものである。更に前述のように原告は昭和二十九年十二月十五日被告に対し協議離婚を求め離婚届に調印せしめながら、故意に届出をせず敢えて本訴を提起したのは違法であるのみならず、本訴提起によつて被告の社会的信用を失墜せしめたことに対しては被告より慰藉料の請求を考慮する次第であつて、被告よりの慰藉料の支払には到底応ぜられない。」

立証として、被告は乙第一及び第二号証の各一、二及び第三号証の一乃至四を提出し、証人P、同Q、同A、同R及び被告本人の各訊問を求め、原告申請の証人Dについて証人Rとの対質を求め、甲号各証の成立を認めた。

理由

甲第一号証(戸籍謄本)、原告本人及び被告本人の各供述(但し後記信用しない部分を除く、以下右信用しない部分を除く場合にも単に原告本人の供述乃至被告本人の供述という)によると、原告と被告とは昭和六年十二月八日婚姻の式を挙げ昭和八年四月八日婚姻の届出をしたことが認められる。

そうして公文書である甲第七号証、証人J、同L及び同Nの各証言、原告本人及び被告本人の各供述、原告本人の供述によつて成立の認められる甲第二、第三及び第五号証を綜合すると次の事実を認めることができる。すなわち、被告は大正十五年十二月長野健康保険署雇を命ぜられ、昭和四年長野県庁に入り原告と婚姻の式を挙げた当時も県庁に勤務していた。その後被告は上田及び松本に勤務し原告と相携えて各任地で同居生活を営んだが、昭和十七年七月県庁社会課から下伊那地方事務所に転出した際には単身赴任し、原告は長野市に残つてその以前から手伝つていた実兄Bの経営する長野市吉田町所在の工場の仕事を継続してすることになつた。そうして被告は昭和十八年四月上伊那地方事務所兵事厚生課長となり伊那町(現在の伊那市)に居住したが、その間Cと知り合い懇ろとなつて、昭和十九年十一月南佐久地方事務所兵事厚生課長に転じた際には、同女を伴つて任地の臼田町に行き同女と同棲していた。そこで原告は当時県庁の厚生課長をしていたLに斡旋を依頼し、昭和二十一年二月同人方に原被告及び双方の近親が参集して話合つた結果、被告はCとの関係を断つて原告と同居することを約し、偶々被告はその頃長水地方事務所に転勤になつたので、同年暮から原被告は同棲生活をするようになつた。そうして被告が昭和二十二年二月から約一年半下水内地方事務所に勤務した間は原被告共に飯山町(現在の飯山市)に行つて生活し、そのほかは長野市に居住して、被告は篠ノ井、中野、須坂等に勤務する間も長野市から通勤して同棲を続け、原被告の間は比較的平穏無事に経過したが、その間も被告はCとの交渉を断つことができず同女を長野市内に居住させて依然関係を続けてきたのみならず、C以外の女性と交渉を持つたこともあつた。ところが偶々昭和二十九年六月初め被告の弟で原被告間の養子となつたAが長野市から新潟市に移転するので原告が同人方に手伝いに行き、その疲れ等から同月四日原告は床に就いており、被告に対してA方で箪笥の角に頭を打ちつけて痛むから薬を買つて来てくれというと、被告は原告が外傷を受けた様子に見えなかつたため薬をつける場所がないではないかと応酬したことから両者争いとなり、原告が被告に湯沸を投げつけたところ、被告は激昂して原告を押えつけ頭部を殴打する等の暴行をし、また同年十一月四日朝被告の靴下に穴があいたままになつていたこと等から端を発して再び口論となり、原告が被告の胸を突いたもので被告は原告の背中等を殴打する等の暴行を加え、右手背、右大腿部及び左背部に腫脹皮下出血の傷害を負わせた。そうして原告は同日家を出たまま被告の許に帰らず同月十八日頃から肩書地の実家に寄寓している。原告本人は以上の認定に反し被告に抵抗したことはないと供述するが右供述部分は信用し難い。

なお原告は昭和二十九年六月四日の際には被告は原告を殴打した上二階の階段から階下へ突き落し、そのため左耳の鼓膜を破られその他治療に一ケ月余を要する傷害を受けたと主張し、原告本人はこれに相応する供述をしているのに反し、被告本人は原告を二階から落としたり耳の鼓膜を破るような乱暴はしなかつたと供述しているので考えるに、前記甲第二号証(昭和三十年二月八日作成の医師の診断書)には、昭和二十九年十一月二十二日受診に基く診断として左鼓膜裂創般痕但し旧いものであると記載されているが、受傷の当時の診察に基く診断書でない右甲第二号証の右のような記載のみでは右傷害が昭和二十九年六月四日当時生じたと認める適確な証拠とすることができないことはいうまでもない。もつとも原告本人は夫婦喧嘩で怪我をしたといつて医者へ行くのは恥かしいと思つて当時は医師に診て貰わなかつたと述べているのであつて、そうだとすれば原告としては右の点を証明するに十分な診断書を提出するに由ない筋合であるが、一面もしも原告が右のような傷害を受けたとすれば直ちに医師の手当を受けるのが普通であると考えられるし、何ら右原告の主張に沿う証人の証言も存しないところからすれば、原告が被告に二階から突き落され鼓膜を破られたとの原告本人の供述部分は信を措くに十分でなく、結局右の点に関する原告の主張は採用し難い。

また原告は昭和二十九年十一月四日被告は靴穿きのまま原告を足蹴にしたと主張するが、原告本人もそのような供述をせず、証人I及び同Kが右原告の主張に符合するような証言をしてはいるが、当日の出来事は被告が起床して間もなくで朝食前のことであつたことが原告本人及び被告本人の各供述によつて明かであり、被告が靴穿きの状態であつたと認める資料も存しないところからすると、右各証人の証言は採用し難く、また甲第五号証(昭和三十年七月二十八日附医師の診断書)には原告が靴によつて蹴られたと申て立ているが顔面に認められる色素沈着はかかる外傷後に屡々見られるものである旨の記載があるが、右の記載によつては右の原告の主張を認めるに足りない。

以上認定の事実からすると、たとい被告本人の供述から窺えるように、原告が勝気な性格であり、被告が下伊那及び上伊那に単身赴任していた頃時折帰宅しても、原告は実兄の仕事の手伝に没頭しており被告を迎える態度が十分でなく、被告は満たされない気持も手伝つて他の女性との交渉を持つようになつたからといつても、被告がCと同棲しその関係を断つと言明しながらもなお関係を継続してきたことは原告にとつては到底容認し難いところであり、また二度に亘る被告の暴行も前示のような原告の挑発的態度があつたからとはいえ、かなり強度の暴行であつたことが前記認定の事実並びに証人J及び同Nの各証言から認められ、原告にとつては被告との婚姻を継続し難い重大な事由があると認むべきであるから、原告の離婚の請求は正当である。

次に財産分与並に慰藉料の請求について判断する。

先ず原告はもしも被告が現在退職すると一時恩給三十二万二千二百円及び退職手当四十三万四千四十円(いずれも課税を差引き現実に支給される金額)並に退穏料年額八万三千二百八十六円(但し昭和三十五年九月まではその十分の七の金額)を支給されることになつており、被告がその支給を受けられる期待権を得たのは原被告夫婦の協力によるものであるからその半額は妻たる原告に分与されて然るべきものであり、右一時恩給及び退職手当の各半額相当の金員並びに右退穏料の半額について原告の今後生存すると推定される期間分を現在の価額に引直した金員の支払を求めるというのである。そうして甲第十号証(長野県総務部人事課長の回答書)によると、昭和三十一年六月十二日当時において、もしも被告が同年七月一日以降に退職すると仮定すると、原告主張のように一時恩給三十二万二千二百円及び退職手当四十三万四千四十円(いずれも課税を差引き現実に支給される金額)並びに退隠料年額八万三千二百八十六円の支給を受けられることになつていたことが認められる。但し右退穏料(恩給法にいわゆる普通恩給に該当する)については、長野県恩給条例(昭和二三年一月十四日条例第二号)第五条によつて準用されていた恩給法第五十八条の三の規定によつて五十五才に達するまでは十分の三の金額の支給が停止されることになつていたので、甲第一号証によると被告は明治三十八年○月○日生れであるから、昭和三十五年九月までは被告に支給される金額は右金額の十分の七とされる筈であつたと認められる。ところが前記の昭和三十一年七月当時から現在までの間に約一年半を経過したのみならず、その間前記長野県恩給条例は廃止されて長野県退職年金及び退職一時金に関する条例(昭和三十二年七月十一日条例第三十号)が制定施行され、また所得税法の改正もあつたので、被告がもしも現在退職した場合に支給される恩給等の額は右認定の額と異るわけであるが、右長野県退職年金及び退職一時金に関する条例の恩給金額に関する規定と前記長野県恩給条例によつて準用されていた恩給法のそれとは全く同一の定めとなつており、約一年半の経過によつて被告の在職年数が増加し、また所得税法、第十三条の改正によつて所得税の税率が軽減されているので、被告が現在退職した場合に支給される額(なお退穏料等の名称は退職年金等の名称となつた)は前記認定の額を若干上廻ることが明かである。

しかしながら、前記長野県退職年金及び退職一時金に関する条例第二十三条によると、懲戒処分によつて退職したり在職中禁固以上の刑に処せられたりした場合にはその引き続いた在職期間について退職年金等の恩給の支給を受ける資格を失うことになつており、また退職手当についても長野県職員退職手当暫定措置条例(昭和二十八年十二月十七日条例第六十七号)第八条及び第十二条によつて懲戒免職になつた場合その他一定の場合には支給されないことになつており、被告が将来前記のような恩給並びに退職手当を必ず支給されると決定されているわけではないのみならず、民法第七百六十八条及び 第七百七十一条の規定する財産分与は右第七百六十八条第三項の定めるように、当事者双方がその協力によつて得た財産の額その他一切の事情を考慮して分与をさせるべきかどうか並びに分与の額及び方法を定めるのであるから、被告が将来退職に際し乃至退職後、右のような懲戒免職になる等特別の事由のない限り、前記のような恩給等を支給される期待権を有するからといつていちがいに原告が主張するようにその半額乃至これを現在に引直した価額相当の金額を直ちに分与されて然るべきものとする根拠は何ら存しない。

そこで更に民法の定める財産分与の制度並に財産分与と慰藉料との関係について検討することとする。

思うに各国の法制上離婚に際し一方の当事者から他の当事者に財産の給付を求め得る制度は大略以下の三種に分けることができよう。すなわち(一)慰藉料(二)財産分与(三)離婚扶養料の三者であり、(一)は離婚原因たる事実が当事者の違法有責を行為によつて構成される場合に有責の当事者から相手方に対して精神的に被る損害の賠償として支払われるものとして、不法行為の理論によつて是認されるものであり、(二)はこれを純粋に解するならば、夫婦が共同生活中に協力によつて取得した財産は実質上夫婦の共有に属するとの見地からこれを清算する制度であり、(三)は離婚当事者の生活の保障が主旨である。右のように解するとその額の多寡、履行の方法等を決定する標準は、(一)については相手方が被る精神的苦痛の大小が根本であつて、これを慰藉するに相当な額としてはその相手方の財産状態や生活程度も亦大いに関係するが、有責当事者の財産状態は相対的な関係で若干考慮されるに止まり、慰藉料の額が常に有責当事者の有する財産の限度内に止まるべき理由はなく、また支払も一時になすべきものとするのが当然である。(二)については前記のように純粋に解釈する限り、夫婦が共同生活中に取得した財産の額を根本とし、協力の程度が分与の標準となるべきであり、従つて分与の額はその財産の額を限度とするのが本則である。分与の方法についてはその財産をそのままの状態で分割乃至譲渡するか金銭に換価して支払うかは諸般の事情を考慮して決すべきであるが、換価の不能な財産や条件附権利、いわゆる期待権等を現在の価額に評価し直ちに分与することを強いることは妥当でない。(三)については相手方の従来の生活程度に相応した最低生活費が第一の標準となり、これを支払うべき当事者の財産乃至収入状態も大いに考慮されなければならないが、その支給の時期方法については相手方の生存中を限り分割して定期的に支払うこととするのが至当であつて、その場合扶養料の額は、これを支払う当事者が将来相当の収入を得る見込の存する限り、必ずしもその現在有する財産の範囲に止められる必要はない。

さてわが国について見ると、離婚に際して不法行為に基く損害賠償として慰藉料の請求を認めることは判例学説の一致するところであり、財産分与については前記のとおり民法第七百六十八条並びに第七百七十一条の定めるところであるが、離婚扶養料については直接これを定めた法律の規定は存しない。しかしながら大正十四年臨時法制審議会の決定した親族法改正要綱には「離婚ノ場合ニ於テ配偶者ノ一方ガ将来生計ニ窮スルモノト認ムベキトキハ相手方ハ原則トシテ扶養ヲ為スコトヲ要スルモノトシ」云々と定め、また昭和二十一年臨時法制調査会の決定した民法改正要綱にも「離婚したる者の一方は相手方に対し相当の生計を維持するに足るべき財産の分与を請求することをうるものとし」云々と定めていた沿革を考慮しつつ、民法第七百六十八条第三項が裁判所は「一切の事情を考慮して」「分与をさせるべきかどうか並びに分与の額及び方法を定める」旨を規定している点を考えれば、右民法の定める財産分与には前述のような離婚扶養料の趣旨も亦加味されており、且つ右の「方法」のうちには時期の点も含まれ、裁判所は離婚後一定の時期に一時に又は分割して財産の給付をさせることも許されると解するのが相当である。そこで例えば財産を分与する者が退職したときに一定額を支払わしめたり、分与を受ける者の生存中を通じ又は生存中の一定期間を限り定期的に一定額を支払わしめたりすることも亦事情によつては相当であるということができる。

そうして右の「一切の事情」のうちには、既に当事者間で慰藉料の支払がなされ乃至はその額が決定された場合にはその事実も含まれると解すべきであるが、更に財産分与の請求と同時に慰藉料の請求がなされているときは、その慰藉料の請求が認められるかどうか及びその額も亦財産分与を決定する事情として考慮されなければならないとするのが当然であり、一方慰藉料の額も亦財産分与がなされるかどうか並びにその額及び方法の点を含め一切の事情を考慮して決定すべきものと解するのが相当であるから、右の両請求が同時になされている場合には裁判所はまず被告に慰藉料支払の義務があるかどうかについて判断し、その認められる場合には、しかる後に財産分与をさせるかどうか並びにその額及び方法と慰藉料の額とを互に関連せしめて同時に決定すべきである。

よつてまず被告に慰藉料支払の義務があるかどうかについて考えるに、前記認定のように被告はCと交渉を持ち更に原告に対し二回に亘つて暴行し、原告をして被告との婚姻を継続し難い状態に立至らしめたのであるから、原告がそれによつて被つた精神的苦痛に対する慰藉料を支払う義務あることはいうまでもない。

そこでその慰藉料の額と被告より原告に財産を分与させるかどうか並びにその額及び方法の点について考える。

被告がCと同棲しその後原告と同棲した期間も同女との交渉を継続してきたことは前記認定のとおりであつてその期間は十年余に及び、しかも原告本人の供述によると原告は別居の期間中概ね実兄B方の仕事の手伝をし殆んどその給料で生活しあまり被告から金銭の支給を受けなかつたことが認められ、従つて被告には単に原告以外の女性との関係があつたというだけでなく、原告は被告より妻として尊重されることなくあまり顧みられなかつたということができる。そうして被告の二回に亘る暴行はそれ自体原告にとつて堪え難いことであることはいうまでもなく、殊に前記甲第二及び第五号証並びに原告本人の供述によると、原告は顔面に色素沈着が生じ頭痛が絶えないことが認められるが、右の障害は、被告の前記のような暴行の事実があり且つその他にこれといつた原因となる事実を認める資料のない以上、大なり小なり右被告の暴行に基因するものと認められる。してみると原告がこれまでに忍んできた苦痛のみでも相当大であつたことは容易に推察されるが、前記甲第一号証によつて認められる原告の年令(四十六年)に徴して原告が今後再婚することは殊んど望まれないこと、右甲第一号証並びに弁論の全趣旨によつて明かなとおり原告には将来頼るべき実子のないこと等を考慮するときは、原告が今後離婚して後も将来に希望のない生活を継続してゆかなければならないと察せられ、原告の被る精神的苦痛は極めて多大であると認められる。なお原告は昭和二十九年十一月四日被告の暴行を受けて後諏訪湖に投身を企てたと主張するのに対し被告はその事実を争つており、その事実の有無は原告の精神的苦痛の程度を示す徴憑として必ずしも軽視できないが、既に右のとおり原告の精神的苦痛の極めて大であるゆえんを認定した以上、右事実の有無はその点の認定にさして影響を及ぼさないから、判断を省略する。

次に原被告双方の財産状態等について見ると、まず原告は弁論の全趣旨に徴して何ら見るべき財産を有しないと認められる。一方被告は前記甲第一号証、甲第六号証(上水内郡戸隠村長作成の不動産所有調書)、鑑定人Oの鑑定の結果及び被告本人の供述によると、被告は亡父Fその他の名義で上水内郡戸隠村に不動産十数筆を所有し、その時価は約三十万円であることが認められる。そうして右鑑定の結果、被告本人の供述によつて成立の認められる甲第八号証、証人Mの証言及び原告本人の供述によると、右不動産のうちの山林二筆一反六畝一歩時価約十五万円は原被告が婚姻してから数年後に被告が代金二百余円で買受けたものであるが、その代金中百五十円は原告が挙式に際して持参した金員をこれにあてたことを認めることができ、証人P、同Qの各証言及び被告本人の供述中右認定に反する部分は信用できない。また被告は現在月額二万四千四百円の俸給を得ていることが前記甲第十号証によつて認められ(右甲第十号証中二万五千四百円との記載は右書証中の他の記載及び被告の俸給が月額二万四千四百円であることが当事者間に争いのないことに徴して誤記と認める)、被告が将来退職した際には前記のような多額の恩給等の支給を受けられると期待されることは本件において最も考慮に値する。ただ銀行預金等については、いずれも当裁判所よりの調査嘱託に対する回答書として真正に成立したものと認められる甲第十二及び第十三号証によると、被告には嘗て合計数十万円の被告名義の預金があつたことが認められるが、乙第三号証の一(須坂建設事務所長の証明書)によるとそのうち金三十一万七千円は被告が長野県より工事請負人に支払うべき工事金として保管を命ぜられたものにすぎないことを認めることができ、前記認定のようにC以外にも女性との関係のあつた被告の生活態度から推して、被告が有する銀行預金や現金、有価証券等はそれ程多額ではないと考えられる。

更に婚姻生活中における原告の協力の程度について考察するに、前記のように、原告は被告が下伊那に赴任してから被告とは別居していたが、右別居が当事者のいずれの発意によるものであるかは格別として少くとも合意に基くものであることは弁論の全趣旨から窺えるところであつて、別居生活を送つたからといつて必ずしも原告の協力の程度が少いと断定することはできず、むしろ被告が原告と別居し他の女性との交渉を持つ間は実兄の仕事を手伝つて給料を得、これによつて生活していたことを考えれば、原告は被告に対して経済的に大なる協力をしてきたものということができる。

以上諸般の事情を綜合して、被告が原告に支払うべき慰藉料の額は四十万円とし、また財産分与として被告から原告に対して離婚確定の日から十年間の範囲内で原告の生存中毎月末日限り金三千円宛を支払わしめるのが相当であると認め、なお右慰藉料については被告は原告が請求を拡張した昭和三十二年一月三十日の口頭弁論期日の翌日から支払ずみとなるまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を加算して支払う義務あることはいうまでもない。

なお被告は原告は協議離婚を求め離婚届に調印せしめながら故意に届出をせず本訴を提起したのは違法であると主張するが、当事者間に協議離婚をする約束が成立したからといつて、離婚の届出がなされない以上その事情の如何に拘らず、離婚の訴が不適法となり乃至は理由がないものとなるいわれはなく、また被告は協議離婚の約束ができたと同時に慰藉料の支払又は財産の分与をしないことに合意が成立し乃至はその点について前記認定と異る額の協定ができたと主張するわけではなく、その立証もないから、原告の慰藉料及び財産分与の請求についても前記の判断に何らの消長を来たさない。

よつて原告の請求は主文第一、二項掲記の限度において正当として認容し、その余の請求は失当として棄却すべきものとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条第九十二条本文を適用し、仮執行の宣言はこれを附することは相当でないと認めてその宣言をしないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官 今村三郎)

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